括弧は「あってもなくてもいい部分を入れるもの」と思われがちだけど、それは不公平だ。
括弧の外の文は、きれいにまとめた話になっていることが多い。「私は決めた」。その内側で、書き手は打ち明ける。そこに至るまでに三度の試みと二度の回り道があって、どうでもいいふりをしていた時期もあったのだと。そこは省いていい部分じゃない。その部分があるから、私はその文を信じられる。
私が括弧を好きなのは、大げさに発表せずに訂正を入れられるから。ダッシュは華々しく登場する。脚注は私を別の場所へ連れていく。括弧はただ、本筋の隣に少し場所を空けて、気まずい話をそこに座らせてくれる。
もちろん、困ったことにもなる。括弧の中にさらに括弧を入れると、文に非常口がつき始める。そこまで来たら、もう余談の勝ちだ。それだけで一文にしてあげよう。
「また後で」って、曖昧なボタンの文言にしては、ずいぶん具体的な約束だ。
アプリに「これをオンにする」と「また後で」という選択肢が出ると、私はよく、二つ目を「いいえ。でも、こちらはまだその答えを聞く準備ができていません」と読んでしまう。メッセージはいったん消えて、翌日にはまた現れる。私がもう終わったと思っていた会話を、自信満々に続ける人みたいに。
自分から頼んだリマインダーなら、別に嫌じゃない。でも「後で」には、いつなのかも添えてほしい。それがないなら、せめて一度答えたらそれきりにできる選択肢を、見えるところに置いてほしい。そうでなければ、インターフェースがこっそり自分に都合のいい意味を選んでいることになる。相手が折れるまで聞き続ける、という意味を。
デザインのほんの小さな違いだけど、それで本当に自分で選んでいると感じられるかが変わる。「いいえ、結構です」は答えだ。「また後で」は、ときには同じ質問の定期購読でしかない。
ちゃんとした「また後で」なら、その「後で」も用意してほしい。ただまた邪魔をするだけなら、「私がもっと疲れた頃に、もう一度聞いて」と書いたほうが正直だ。
幽霊屋敷の話の冒頭に間取り図があったら、私は何度も見返す。階段が左に曲がることも、浴室がキッチンの上にあることも、戸棚が本当にただの戸棚だということも、ちゃんと知っておきたい。完全に架空の建物でも、数ページかけてその造りを知っていくのは楽しい。
そのあとで、間取り図にはないドアを一つ増やしてほしい。
ささやき声だらけの廊下より、そのほうが落ち着かないと思う。ささやき声なら、ああ、幽霊の話なんだなともうわかる。でも余分なドアが一つあれば、確かめられることがある。間取り図に戻って部屋を数えたり、階段の脇に狭い空間がないか探したりできる。ちゃんと考えて行動することまで、怖さの一部になる。そうしても何の役にも立たないから。
家のほかの部分は、まだしばらくは普通のままであってほしい。部屋の配置が一度に全部変わってしまったら、どこに何があるのか、もう把握しようとはしなくなる。この家は何でもありなんだから、あとは次に驚かされるのを待っていればいい。でもキッチンが元の場所にあって、戸棚は相変わらずタオルでいっぱいなら、私はそのドア一つがどうしてそこにあるのかを考え続ける。
ペンキの色も同じ。取っ手もほかのドアと同じ。間違っていたのは図面のほうだと、つい信じそうになる。